雲 黒斎さん著の『もっと あの世に聞いた、この世の仕組み』という本に
「さとり」とは、自我の消失だ。が、学習や修行を通してその自我の消失に挑んでいるのは「自我自身」。つまり、さとりたいと願う自我がありつづけるかぎり、「さとり(自我の消失)」は訪れないという構図ができ上がる。
とあります。
じゃあどうしたらいいんだ!の答えはこの後に続くと思われますが、いまはまだその箇所を読んでいません。
スピリチュアルも詰まるところ同じ問題をはらんでいると思う。
苦しみから逃れたくてスピリチュアルにすがろうと思うが、もしその苦しみの原因にエゴが関わっていたら、矛盾を起こしてしまう。
おそらく真のスピリチュアルが私たちに求める最終形態も自我の消失だろう。
自我の欲求を満足させたいからスピリチュアルを求めたのに、スピリチュアルはその求めた主体であるエゴを捨てろと言う。
パラドックスである。
真のスピリチュアルを求めれば求めるほど深いパラドックスにハマってしまう。
私にしてもこの本をこうやって読むのは、自我の欲求からだ。
それは知識欲であったり名誉欲であったり金銭欲であったりする。
さとればもっと人生はよくなるのでは?
さとればもっと人に認められるのでは?
さとればもっと稼げるのでは?
そう思っているのは私の自我だ。
さとりが自我の消失であるのなら私(自我)はさとりの必要性を感じない。
ただし「苦」からは逃れることが出来る。
苦の原因が欲望を満たすことが出来ないことであれば、欲望が消滅すれば、苦も当然消滅する。
しかし欲望が消滅すれば、さとりたいという気持ち(欲望)も消滅するはずだ。
であるなら最初からさとろうと思わなくても良いことになる。
自我が消滅すればすべてはどうでもいいこと、すべてはあるがまま、それ以上でもそれ以下でもない。
すべては中立になってしまうだろう。
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