瞑想は
目的にいたるための手段ではありません
瞑想は
手段でもあり
目的でもあります
以上、J.クリシュナムルティ (著), 中川吉春(翻訳)『瞑想』P.25より引用させていただきました。
ふつう私達が瞑想という言葉を聞くと、ああきっと瞑想で得たい何かがあるんだろうなと想像します。
つまり瞑想と言った時点で、何かの手段と考えるのがふつうです。
癒しのため、病気の治療のため、集中力アップのため、リラックスするため、スポーツに勝つため等々いくらでも理由は出てきます。これらはすべて瞑想を手段と考えています。
瞑想自体が目的となるとは、どういうシチュエーションでしょうか?
ふつうは瞑想をする時、何々だから瞑想しようとなるはずです。
毎日この時間に瞑想すると決めたので瞑想しようとか、なんだか心が乱れて心苦しいから瞑想しようだとか、スピリチュアル的に良いから瞑想しようだとか。
でも、その「何々だから」の部分がない瞑想が、瞑想が目的の瞑想なのかもしれません。
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