雲 黒斎さん著の『もっと あの世に聞いた、この世の仕組み』という本に
お釈迦様は、ハードルの越え方を知らない君を「無明(わかっちゃいないな)」と言ったのではなく、ハードルがないことに気づいていないという、そのことを「無明」と言っているんだ。
とあります。
さとりへと向かうコース上には元々ハードルなどないのだが、皆はハードルという障害物があると思っているので、ハードルの越え方を学んだり、ハードルの越え方を練習したりしてしまう。
そしてその結果途中で挫折したり傷ついたり疲れたりしてしまう。
しかし、元々コース上にはハードルなどないのだから、それに気がつけばいいだけであり、ハードルの越え方を学んだり練習したりする必要はない。
さとりへと向かうコースを歩むためには、越えるべきハードルなどないと気づき、ただ歩けばいいのだ。
……ということで
さとるためには何もしなくても良い(ただ気づくだけで良い)が、かといって肉体を持った自我のためには何もしないわけにもいかない。
さとりへと向かうためにはハードルという障害物を越える必要はないが自分の足で歩き続けないかぎりゴールにはたどり着けない。
別にいまここでさとる必要はないが、さとりへのコース途上には何も障害物はないのだと気づくことは生きていく上で有用である……ということでしょう。
あるいは、さとり=自我の消失であるのならば、自我自体が幻想であり元々存在しないのだから、存在しないものを消失させることは出来ない。(存在しないハードルを飛び越えることは出来ない)
存在しない障害物を一生懸命飛び越えようとするからおかしなことになってしまうが、障害物などないと気がつけば、すんなりコースを歩いて行ける。
存在しない自我をさとりによって消失させようとするからさとれないが、自我は元々存在していないのだと気がつけば、それがさとりとなる?
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