瞑想は手段でもツールでもない。「結果」なんだよ。瞑想は、するものではなく起こるもの。「恋に落ちる」のと同じように、「瞑想に落ちる」んだよ。 : 雲 黒斎著『もっと あの世に聞いた、この世の仕組み』を読む

雲 黒斎さん著の『もっと あの世に聞いた、この世の仕組み』という本に

瞑想はね、「するもの」じゃないんだよ。「落ちるもの」なんだ。
(中略)
何かをしようとするあらゆる意図が、すべて落ちきった状態のことを「瞑想」と呼ぶんだ。
瞑想は手段でもツールでもない。「結果」なんだよ。
(中略)
瞑想は、するものではなく起こるもの。「恋に落ちる」のと同じように、「瞑想に落ちる」んだよ。

とあります。

瞑想は大切だし瞑想を通してさとりを開くような事例もある。
しかし、では、瞑想すれば良いものなのか、あるいはしないほうが良いものなのか、(これまでの流れだと)わからなくなる……とこの本にあります。

その答えがこの引用した部分です。

さとるためにはさとろうとしないこと、との流れからすると、やはり瞑想はするものではなく起こるもの、となるのでしょう。

さとりは自我の意図によって生まれるものではなく、自我の意図の及ばないところからの働きかけによって起こるものだそうです。

自我の消失状態がさとりであるのなら、さとろうとする自我がある限り、さとることはできない。
なぜなら、さとろうとするのは他ならぬ自我の仕業だからだ。

以前読んだ本にもこうありました。(おそらくバシャールの言うワクワクもここでいう瞑想と本質的には同じものなのでしょう)

おしゃべりや 憎しみや 嫉妬を見つめ あなた自身のなかで これらすべてのことに 思考をさしはさむことなく気づいているとき それはすでに 瞑想になっています : J.クリシュナムルティ著『瞑想』

瞑想のなかにある心(マインド)は 静かです それは 思考が その表象 言葉 知覚のすべてとともに すっかりやんでしまうときにおとずれる静けさです : J.クリシュナムルティ著『瞑想』

瞑想とは 窓をあけておくと自然に流れこんでくる そよ風のようなものです しかし わざと窓をあけて待っていたり それを故意に招き入れようとするなら けっして姿をあらわさないでしょう : J.クリシュナムルティ著『瞑想』

瞑想は 目的にいたるための手段ではありません 瞑想は 手段でもあり 目的でもあります : J.クリシュナムルティ著『瞑想』

瞑想とは 概念や固定観念が なにひとつない心の状態です 心が完全に自由になった状態です そのような心にだけ 至福がおとずれます : J.クリシュナムルティ著『瞑想』


もっと あの世に聞いた、この世の仕組み

MIL18037

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