「瞑想をしよう」とすると、そこにはしようとしている私、「自我」が存在する。でも、何かをしようとする自我そのものがなくなれば……、それは無我の境地、禅定状態になる。 : 雲 黒斎著『もっと あの世に聞いた、この世の仕組み』

雲 黒斎さん著の『もっと あの世に聞いた、この世の仕組み』という本に

「瞑想をしよう」とすると、そこにはしようとしている私、「自我」が存在する。
でも、何かをしようとする自我そのものがなくなれば……、それは無我の境地、禅定状態になる。
このことの意味が理解できたなら、さとりは目前さ。

とあります。

一般的に瞑想というと何か目的があって始めると思います。
なんの目的もないのにいきなり瞑想しよう!とはならないと思います。

しかし、瞑想が結果の状態であるのなら、決してそれをすることは出来ないように思います。
何かをしている限りは決して結果は訪れないからです。

結果は状態=Beingであり、原因は行為=Doingであり、相容れないのでしょう。

……と述べてみましたが、まったく自信はありません。間違っているかもしれません。まったく的外れなのかも知れません。

でも、いずれにしても、ワクワクと無条件の愛、そしてさとりと瞑想、空と無と中立、これらはすべて同じものを別の角度から言っているように思います。

ただ言えるのは、100パーセントの無我の境地では、この現実を生きていけない気がします。何パーセントかの自我がないと、生命を失う危険がある気がします……が、野生動物って自我があるのでしょうか?もし動物には自我がないのであれば、自我がなくても、生命体の寿命は全うできることになりますね。


もっと あの世に聞いた、この世の仕組み

MIL18020

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