雲 黒斎さん著の『もっと あの世に聞いた、この世の仕組み』という本に
「私から見て」という限定された見方は、ありのままの中立な状態を見過ごしてしまうことになる。
(中略)
『私』という視点を持ち込むことによって、物体は本来のありのままの姿(中立性)を失ってしまうということなんだ。
とあります。
ということで、ここで目出度くバシャールに結びつきました。
いつもバシャールはこう言っていましたから。
ツール〈原則・知識〉すべては中立、ニュートラル 「人生にはまったく何の意味づけもされていない」 「すべては中立、ニュートラルである」 : BASHAR(バシャール) 2006
まさに『私』という視点が持ち込まれたから、法律というものが必要になった。警察も必要になった。時に戦争も起こるようになった。
すべてがありのままで中立であれば、戦争も犯罪も起こりようがない。
いわゆる成功とか失敗とか、そういう概念も生まれようがない。
中立であれば、比較という考えも生まれない。
中立なものを比較することは出来ない。
もともと、何も決まった定義はありません。”ただ、そうであるだけ” そうすると、苦しさは自分の定義から創られていたのだとわかってきます。 : 『空(くう)―天翔ける歓喜の弥栄』をバシャール的に読む
すべては中立、ただそうであるだけ。
苦しみが生まれるのは、意味づけをするから。
あるがままに何も意味づけをしなければ苦しみも生まれない。
あるいは、自分にとって良い意味づけをすれば苦しみは生まれない。
『私』という視点を失い続けることは実際的ではない。
だがしかし、一時的に『私』視点を失ってあるがままの世界を見つめるのは……
『私』にとっては有意義だ。
だがしかし、その「有意義」でさえ、あるがままの世界では、中立で意味を持たない。
中立が中立のままでは現実を生きていくことは出来ない。
あるがままの中立が真実であったとしても、『私』は中立であることを利用して中立に自分に有利な意味を与え、自分に役立てようとする……ということでしょう。
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