皆さんはこの物理的現実という観点を、大いなる全てが自らを映し出すための様々な方法に加えるもうひとつの手段として創り出しました。ただ単にそのような見方を創り出すことも可能だというだけで…。
以上、ダリル アンカ (著), 関野 直行 (翻訳) 『ニュー・メタフィジックス―世界を創る意識の力学』P.22より引用させていただきました。
非物質的な世界に知性はない、意識はある。概念もある。
非物質的な世界では、私たちは概念そのもの。
この物質的な世界でも、私たちは概念そのもの。
知性をもっているという概念、物理的現実とは何であるかを定義付けしたり、実際にこの物理的現実を創造することは、本質的な存在そのものであることや概念そのものであることからの分離を意味しています。そして結局、存在そのものの中で、「自分とは時間と空間の中に存在する何かである」という観点を創り出します。(P.21)
……以上、なんだかわかったようなわからないような、不思議な脳の感覚です。 😉
大いなるすべては、自分自身がたったひとつでありしかもすべてなので、自分を知ることが出来ない。世界にたった一人しか人間がいなかったとすると、その人間は自分がどういう人間なのか知りようがありません。だって比較するものがありません。
だけどもしそのたった一人の人間がクローン人間を作り出し、そしてその中に自分の魂の様々な”一部”を埋め込むことが出来たら、そしてそういう自分の一部を反映したクローン人間がたくさん増えてくると、そのうちの一人を見て、ああこのクローン人間は他のクローンより、優しいなとか、きかないなとか、綺麗だなとか、知ることができる。そしてその知ることができたクローン人間の資質というのはもともと自分のものである……こうやって自分というものを、たった一人の人間が自分の分身であるさまざまなクローン人間を見ることによって、知ることができた。
そんな感じなんでしょうかね。
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