あるがままを受け入れ、受容している状態は”愛”です。「どうやって?」と”考える”と、できません。 : 『空(くう)―天翔ける歓喜の弥栄』をバシャール的に読む
あるがままを受け入れ、受容している状態は”愛”です。
「どうやって?」と”考える”と、できません。
以上、Mana (著) 『空(くう)―天翔(あまか)ける歓喜の弥栄(いやさか)』P.99より引用させていただきました。
このあるがままを受け入れることができるかどうかが、分かれ道ですね。
で、なんの分かれ道だろう?(^-^;
考えるとできないのはなぜだろう?
としっかり私はいま考えています。
ああ、そうか!
愛は状態であって”行為”ではないからだ。
愛は行為ではないので、どうやって?とその方法を考えるのは無意味です。
答えは絶対に出てきません。
では
あるがままを受け入れ、受容している状態は愛の状態であって
あるがままを受け入れ、受容することは行為なので、愛ではない?
じゃああるがままを受け入れるのと、あるがままを受け入れている状態はどこが違うのか?
受け入れる行為には、時間が必要。
無いから受け入れる、という時間の流れが前提条件にある。
受け入れている状態は、もうすでにそうである状態。
そこになんらかの判断が入り込む余地はない。
ということか?
いまのところ、よくわかりません。
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