外に意識を向けてる時は、形にならず、感じるものになってしまう : 『なつかしいハーモニーの惑星へ』をバシャール的に読む

『体験するために』そのバイブレーションを使うんじゃなくて、
そのバイブレーションを『統合するために』使うと、当然、こっち(自分のほう)に意識を向けて、それを形にしていくわけです。

外に意識を向けてる時は、形にならないんです。感じるものになっちゃいます。
でも、それを形にしよう、ただのバイブレーションとして、形にしよう。

以上、関野 あやこ (著), 笠井 裕子 (編集), 佐藤 カスミ (編集), 大湯 由里子 (編集) 『なつかしいハーモニーの惑星へ』P.92より引用させていただきました。

この部分を読むまでは、逆のように考えていました。
外に意識を向けて形をつくり、内に意識を向けて外を感じる……。

でも、逆?
あるいは、どっちも正しい?

またここにパラドックスを発見しました。(^_^)

逆説です。

形あるものがただのバイブレーションで、外に意識を向けると単なる形あるものからそこから感じるものになってしまう。

映画を上映している映写機で考えれば、スクリーンに意識を向けている時は、形にならず、感じるもの(感情移入して観るもの)になってしまう。

でも内側である映写機に意識を向けると、そこにはただ映画のフィルムがあるだけ。
スクリーンに映った現実をリアルな形にすると、それは映写機の中にある映画のフィルムに過ぎなかった……。

そういうことでしょうか。

観賞するために映画のフィルムを使うのではなくて、映画を元あった自分の完全コレクションに戻していくには、映写機のほうに意識を向けて、セットしてあった映画のフィルムを取り出さなくてはならない? しかも映画のフィルムをセットした映写機がたくさんあってそのどれもがひとつのスクリーンを向いているのだ。

しかもこれの良いところは、映写機に空きができたために、自分の好きな映画をコレクションから出してきて好きなように観られるようになったことだ。実はもう見飽きた映画がたくさん映写機にセットされていたのだ。

次から次へとスクリーンに映し出される映画だけを観ていたら、きっと気がつかなかっただろう。
映写機にセットされた映画フィルムを取り替えることで自分の好きな映画を観ることができるということを。

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