想像することができるものはすべて実在するのです。
みなさんの想像力は存在しないものをイメージ化することはできないのです。
想像できるすべてのものは自動的に存在の一部分であり、つまり、「大いなるすべて」の一部分でなければなりません。
なぜなら、「大いなるすべて」の外というのはないからです。
「大いなるすべて」はあらゆるところ、あらゆるものです。
「大いなるすべて」を超える、ということはありません。
「超える」という概念そのものが「大いなるすべて」の中にのみあるのです。
以上、バシャール (著), ダリル・アンカ (著), 北村麻紀 (翻訳) 『バシャール・ペーパーバック7―ワクワクとは、あなたの魂に打たれた刻印である (VOICE新書)』P.227より引用させていただきました。
さて、私達にとって存在とはなんでしょう?
存在とは私達がそれをなんらかの感覚器官を使って認識可能なもの、ということができると思います。
もしUFOが存在するなら、それを見ることができます。触ることができます。搭乗することができます。
つまり経験可能なものが存在と言っていい気がします。
さらに付け足せば、経験が可能だと思われるものも存在だと考えます。
たとえば、アメリカの大統領は、会ったことも見たこともないのに、存在すると考えるのは何故でしょう?
それは、テレビや新聞、雑誌の伝えていることが真実だと思っている論理的帰結です。
テレビで見たことがあるからアメリカ大統領は存在するとふつうは考えています。
それを実際に経験していなくても、論理的合理的に考えて、もし自分がそこに居れば経験することが可能であろうというものも存在なのです。
以上は、一般的に考えた存在というものです。
しかし、ふつう一般的に考えて、自分が想像したものが、論理的合理的思考を超えていれば、それが存在するとは考えません。
頭が12個あって、手が8本、胴体が蛇で、足が戦車のキャタピラーである生き物が存在するとは到底思えません。
しかし、イメージの中ではそれを見ることができる。
さて実在と言っても、それを経験するには地球に住んでいる我々には時間と空間が必要です。しかし、時間と空間は幻想であり、本当は存在しない。
実在を経験できるのは幻想の中だけ、ということになります。
幻想の中での経験、たとえば夢の中での経験を、それが実在したとはふつう言いません。
でも、夢の中にいるうちは、それが実在していると確かに思っています。
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