バシャールと宇宙連合による本『ニュー・メタフィジックス―世界を創る意識の力学』の58~59ページにはこうあります。
彼は単にイエスという個人を通してひとつの鏡となることを望んでいただけなのです。すべての個人が神または大いなる全ての延長、もしくは(聖書的な言い方をしたければ)子供であるという考え方を反映する鏡となることでした。
ですから皆さんが宗教と呼ぶものすべて(すなわち、人々は指導者を必要とし、自分が神聖なる者以下の価値しかなく、そして神聖な者に審判される立場にあると思うことを探求する概念)は、常に大いなる全ての内部における分離なのです。この宗教と呼ばれる概念はすべて、指導者自身が無意識の中に存在する無力感の真只中にいるにもかかわらず、その力を維持してほしいとあなたに望ませることによって、他人に、自分の本来持つ力を委ねさせてしまうものです。これを人の無力さ、怖れ、審判を通して、もしくは指導者自身を大きく見せることを通して行います。人々は、自分は無価値であり、神聖なるものの一部ではないと思い込んでいるのです。しかし、自分が神聖なるものの一部であると知ることはすべての人のもつ権利です。
一番おかしいのが
宗教について語るのがダブーであったり
命に関わったりすることです。
宗教の存在意義からすると真逆の方向性です。
宗教は真理を求めているはずです。
真理は誰がなんと言おうと揺るぎません。
だから、何を言われようが誹謗中傷されようが、大歓迎のはずです。
それが弱き者の救いになるはずです。
さらに歴史を見ても、宗教ゆえに起こったことがたくさんあります。
十字軍遠征、魔女裁判その他……
日本に原爆を二発落としたときにも、その心をなだめるためにその場に宗教者がいたと言います。
そうでもしないと、原爆による罪のない一般人の大量虐殺は、彼らにしても、恐ろしいことだったのです。
悪い意味で宗教の良いところはあります。
それは同じ志を持った人の集団であるということです。
一人より集団の方が強いのは自明の理です。
集団の方が何をするにしても有利です。
一人ではできないことが集団ではできます。
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