『私』という視点を持ち込むことによって、物事は本来のありのままの姿(中立性)を失ってしまう。: 雲 黒斎著『もっと あの世に聞いた、この世の仕組み』kindle版をバシャール的に読む

雲 黒斎さん著の『もっと あの世に聞いた、この世の仕組み』という本に

『私』という視点を持ち込むことによって、物事は本来のありのままの姿(中立性)を失ってしまっている

とあります。

物事は本来のありのままの姿で中立ではあるが、常に変化している。

この変化も意味づけのひとつではないのか?

中立であるのなら永遠に変化もない気がする。

この場合は映画のフィルムを思い出すのが良いのかもしれない。

映画のフィルムの一コマ一コマは静止している。
そして一コマだけを取り出してみてみるとそこに中立性がある。
前のコマと後ろのコマの関係性によってのみこの一コマに意味が生まれるのであって、一コマだけを取り出すと、その一コマは静止しておりしかも中立だ。

しかし、映画のフィルムの一コマ一コマの役目としては、次から次へと休みなくスクリーンに映し出されなければならない。スクリーン上では映像が常に変化している。逆に言えば変化がなく一コマだけが延々と映し出されていたら、それはもはや映画とは言えない。

映画フィルムの一コマ一コマは静止しており中立であるが、それを映写機にかけて連続して投影すると、中立性を失ってしまう。一コマ一コマに意味が生まれる。

そしてバラバラの中立な一コマ一コマより、連続して再生される意味のある動画映像の方が、より面白い。

あるいは逆に、『私』という映写機を持ち込まないで、不連続で意味のない映画フィルムの一コマ一コマと見たとき、そういう見方も可能だと気がついたとき、自分なりの映画を創造できる可能に気がつくのかも知れない。


もっと あの世に聞いた、この世の仕組み

MIL18028

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