みなさんは闇を経験することを怖れますが、実は自分が望むだけの暗闇を経験することを、光によって許容されています。「対照となる闇が存在しなければ、誰も光を光として認識できない」ということを光は知っているからです。 by バシャール

みなさんは闇――対立や葛藤、痛み、苦しみ、怖れなど――を経験することを怖れますが、実はみなさんは自分が望むだけの暗闇を経験することを、光によって許容されているのです。
それは、光は知っているからです。
「対照となる闇が存在しなければ、誰も光を光として認識できない」ということを……。
ですから、光は闇をも無条件に愛しています。

つまり、みなさんが闇を無条件に愛しているときには、闇を経験する必要がなくなるのです。
なぜなら、そのときあなたは闇をも光と同じように価値あるものとして扱っているからです。

これは大きなパラドックス(逆説)ですが、「闇を無条件に愛する」ことは、「情熱に従って生きる」というスキルの中に含まれているのです。
闇を怖れているからこそ、その怖れによって闇と同じ方向を向いてしまい、その結果、闇の体験をするのです。
闇をも無条件に愛してください。
そうすれば、闇は透明になり、みなさんは光を見ることも、経験することもできるのです。

以上、ダリル・アンカ (著), 大空 夢湧子 (翻訳) 『BASHAR(バシャール) 2006 バシャールが語る魂のブループリント』P.37-38より引用させていただきました。

バシャールのこの「みなさんは自分が望むだけの暗闇を経験することを、光によって許容されているのです。」という言葉が、心にしみます。

そう、私は確かに闇を経験することを望んでいたし、今も時々望んでいる。

だとしたら、今の闇は、自分の望みどおりということになる。

それは、光は知っているからです。
「対照となる闇が存在しなければ、誰も光を光として認識できない」ということを……。

じゃあ俺が善を世に津々浦々に知らしめるために悪の限りを尽くしてやろうじゃないか!

……は、当然おかしい気がします。

というのは、悪の限りを尽くしたい自分が先にあって、善を世に知らしめるというのは後付だからです。

あるいは、善悪というのは人間の価値観から来ており相対的であり
光と闇という絶対的な価値観と対比すること自体が間違っているのかも知れません。

しかし、バシャールは闇を、「対立や葛藤、痛み、苦しみ、怖れなど」と定義づけしていますよね。
本来中立であるものを、バシャールでさえ定義づけ、意味づけしている……という事実。

だが、これは単なる定義づけであって、別の何処かの現実では、光とは「対立や葛藤、痛み、苦しみ、怖れなど」であると定義づけしているかも知れない。

そういう常識に反した世界を想像できるということは、そういう世界が実際にどこかの現実に存在しているということだ。

みなさんのイマジネーションは「現実」です。現実でないものを想像することはできません。 すべてのものは現実です。そして、みなさんが「存在」と想像できるものはすべて存在するのです。 by バシャール

死が生で、生が死である現実も何処かに存在するのだろう。
もし、死後の世界があるとして、転生もするとして、死後の世界からすれば、死後の世界からこちらの世界に生まれることは、死後の世界での死を意味するだろう。

そして逆に、こちらの世界での死は、死の世界での生となる。

でも確かに「対照となる闇が存在しなければ、誰も光を光として認識できない」とは言える。
闇の無い光だけの世界で、どうやって光を光として認識するのか?私は想像できない。

PCの全ディスプレイに白色を表示させ、そこに白で何を描こうが、その描いたものをあとで認識するのは不可能だ。
しかしディスプレイの色が黒だったなら、そこに白で何かを描けば、白を白と認識することができる。

次に

闇をも無条件に愛してください。
そうすれば、闇は透明になり、みなさんは光を見ることも、経験することもできるのです。

というのは、ひょっとしてこう言うことなのかも知れない。

黒地に白で何かを描いているとき、消しゴムになる色は黒である。
つまり、黒は闇の役目をしている。

しかし今度、白地に黒で何かを描いているとき、消しゴムになる色は白になる。
この時、黒は光と同じ役目をしており、白は闇の役割を担っている。

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