監督であるこの「わたし」の力で、より良い『現実』という映画を創り上げたいなら、その最善の方法は、「ワクワクすることをする」。

監督であるこの「わたし」の力で、より良い『現実』という映画を創り上げたいって、誰だってそう思うんだよね。その最善の方法が、「ワクワクすることをする」。拍子抜けするくらい、バシャールたちの教えはシンプルだよね。

以上、さとうみつろう (著), ダリル・アンカ (著)『その名は、バシャール』28ページより引用。

誰だって現実を良くしたい。

その現実を良くしたいを具体的に語れば、自由に現実を創りたい!なんだと思う。

しかしスピリチュアルの観点から考えると、何でも自由に創ることが出来る世界に飽き飽きして、この現実世界に生まれて来たのに、自由に現実を創りたいと考えるのは矛盾している。

この矛盾は本来神さまである自分とエゴとしての自分が同一ではないと考えているからだ。

本来神さまである自分がなんでも自由に出来る世界に飽き飽きして、不自由を体験するためにエゴを持ってこの現実世界に生まれて来た。神である自分の自由意志によって……。

つまり自由を求めた結果がこの不自由で制限のある現実世界で暮らすことだった。

だからエゴにとっては不幸であることが神さまである自分にとっては幸福なことになる。
だって不自由になりたいと言う自分の願いがかなったのだから。

エゴにとっての不幸は神さまにとっての幸福だ。

だとすればエゴに残された道は、この不自由で制限された世界を、それでもエゴである自分は幸福であると意味づけるか、やはりエゴである自分にとってこの現実世界は不幸であると意味づけるかの二者択一になる。

なんでも自分の自由になることが幸福であるとするならば、この現実世界に生まれた時点でもうすでに不幸である。この物理的な世界で生きている間は常に不幸だ。

病気も、老いも、他人も、自然も、宇宙のすべては「エゴである自分」の自由にはならない。
でも「神である自分」にとってはその不自由を味わうためにそれらの物理的な現実世界を創ったのだから、その目的が達成されてとてもハッピーであるとなる。

エゴとしての自分は、ハッピーエンド後を描いた映画を望むが

神さまとしての自分は、ハッピーエンドへと向かう経過を描いた映画を望む。

なぜならその方が「面白い」からだ。ワクワクするからだ。

ハッピーエンド後を描いた延々と何も起こらない日常を描いただけの映画にワクワクするだろうか?

映画を観てワクワクするのは、ハッピーエンドへと向かうその経過が面白いからなんだと思うが。

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