大いなる全てにとって、自らをあらゆる方法で表現するために究極的な目的は必要ありません。大いなる全てはあらゆる表現をすることが可能であり、それをただ行っているだけなのです。 by バシャールと宇宙連合

大いなる全てにとっては、自らをあらゆる方法で表現するために究極的な目的は必要ないことを理解してください。大いなる全てはあらゆる表現をすることが可能であり、そしてそれをただ行っているだけなのです。これは存在自体のひとつの定義でもあります。目的という考え方が生まれた以前に存在していたものは、その存在を続けるために、目的は必要ありません。これは本来そういうものだというだけのことです。

以上を、バシャールと宇宙連合 (著), ダリル・アンカ (著), 関野直行 (翻訳)『ニュー・メタフィジックス―世界を創る意識の力学』P.60より引用させていただきました。

目的という 考え方 が生まれたのがおそらく5つの波動レベルの知性(または思考)の波動レベルのはずなので、5つの波動レベルの一番上の「存在」は、知性には影響されないと考えらるのは当然に思えます。

もうすでに存在してしまい、しかもその存在がすべてである状況では、その存在の目的を問うても意味がありません。

こぼれたミルクの、そのこぼした理由(目的)を問うのは無意味です。
こぼれたミルクの、そのこぼれた原因を探るのは次につながるかもしれません。

ミルクをこぼしてしまった時、そこに目的はありませんが、不注意などの様々な原因は存在します。
ミルクはただ単にこぼしてしまっただけなので、そこに目的はありません。

本来目的などないものに対して目的を探ろうとするとおかしなことになります。

ひょっとして人間も、あるいは人生も、そうなのかも知れません。

もし生まれたことに目的などないとしたら……
幸せなどになる必要はないとしたら……
豊かになどなる必要はないとしたら……

実際バシャールも人間は生まれながらに幸せであり豊かであると言っています。

ひょっとして人間は、あるいは人類は、生まれた目的や生きる目的があると思っているので
世の中、おかしなことになっているのではないか?という疑いも出てきます。

人間、あるいは人類の、生まれた目的や生きる目的と、戦争や資本主義、コマーシャリズム(商業主義、営利主義)、マスメディア等々は
密接につながっていると思うからです。

本来、生まれた目的や生きる目的などないとしたら……
当たり前と思っていたものが実は当たり前ではなかったとしたら……

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