雲 黒斎さん著の『もっと あの世に聞いた、この世の仕組み』という本に
人間は「新しい命が誕生する」という根拠のない妄想を抱えているからこそ、世界を根本的なところから見誤ってしまうんだ。ありもしない死を恐れて、本来の生を見失う。
とあります。
さて、これに反論させてもらうと、私たちは人間としてこの世に生まれるのを「誕生」、死んで肉体を失うのが「死」と定義しているので、誰が何と言おうと歴然として、生命の誕生と死は存在している。
つまり、犬を犬、猫を猫と定義づけしている世界で、本当は犬は猫であり猫は犬であったとしても意味はないということです。ある意味真実は不必要であり大事なのは私たちがどのような定義づけをするか、です。そう定義づけしたものが私たちにとっての真実となる。
……とこれは自我を持った人間としての当然の思考結果であると思う。
しかし、スピリチュアルを学ぶにつれて、あるいは人生を生きていくにつれて、人生って順番が逆に出来ているなとか人生って逆説で出来ているなと思うことが度々あり、もしこの引用したようなことが真実であるのなら、それも頷けるなとは思います。
そもそもの前提が間違っているから、認識が逆説になったり順番が逆になる。
私たちは生まれていないから死も存在しない。
私たちは元々幸せな存在なので、幸せになることはできない。
真我というのはない。真我という状態があるだけ。
※この引用した前提であるなら、私の疑問の一つも解けます。その疑問の一つは「なぜ神は寿命によってすべての人間に死を与えるのだろう?」でしたが、死そのものが存在しないのであれば、疑問も氷解します。
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