雲 黒斎さん著の『あの世に聞いた、この世の仕組み』という本に
自我(エゴ)という名の壁がなくなったとき、壁の内にあった「空間(本当の自分)」と、壁の外にあった「空間(大いなる存在)」が一つとなり、存在本来の姿(全体)となる。
とあります。
このことを私なりに解釈してみます。
「大いなるすべて」というブランド名の水があるとします。
この水はかなり大きな容器に入れられている。
誰かがこの「大いなるすべて」と名付けられた水をコップにすくって、そのままそこに浮かべたとする。
コップ内の水とコップの外の水は、コップという壁によって隔てられてはいるが、同じ「大いなるすべて」と名前が付いた水です。
だけど、水に浮いたコップを初めに見た人は、すくった水だとは知らないので、外側の水とコップの中の水は、違うものだと思うかも知れない。
このような「大いなるすべて」と名付けられた水の上に、こうやってすくった水を入れたコップがたくさん浮かんでいると、比較することが可能になってくる。
コップの種類や材質、コップに入っている水の量、コップにすくわれてからの経過時間等々、個性が出て来る。
そのうちにコップの中の水たちは、自分が「大いなるすべて」というブランド名の水であることを忘れてしまう。
この場合、コップの中の水は完全に「大いなるすべて」ブランドの水です。
そういう意味では、コップの中の水は完全です。
しかし、「大いなるすべて」ブランドの水として後々出荷されるためには、一度コップの中の水を外側の水の中に空けなくてはならない。
そういう意味、「大いなるすべて」ブランドの水としてボトル詰め前の水になるには、コップの中の水は不完全だとも言える。
この場合、コップの中の水が、「大いなるすべて」ブランドの水になるには、コップの水を空ければ良いだけであって、そこに付け足す添加物のようなものは必要としない。
コップの中の水にこれを入れると「大いなるすべて」ブランドの水になりますよ、という情報があったとしたら、それは間違っていることになる。
……ということで、かえって分かり難くなってしまったかもしれませんが、いろいろ多角的に考えることは悪いことではないと思います。
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