もし、あなたが肯定的なものの見方をする人間であることを選択していれば、万が一、他人が否定的な意図をもってあなたになにかを行っても、あなたは、肯定的な結果しかそこから得ることはできません。 by バシャール

もし、あなたが肯定的なものの見方をする人間であることを選択していれば、万が一、他人が否定的な意図をもってあなたになにかを行っても、あなたは、肯定的な結果しかそこから得ることはできません。
その人の意図がどんなものであったにせよ、あなたの周囲にあるエネルギーの泡を通るとき、フィルターにかけられ、肯定的なものに変わって、あなたに到達します。

以上、ダリル アンカ (著), 関野 直行 (翻訳)『バシャールペーパーバック〈6〉ワクワクを生きると自然に「いま」を生きられる。 (VOICE新書)』P.51より引用させていただきました。

このことを今朝の某新聞に載っていた一般人からの投書で考えてみたいと思います。

今日の某新聞の読者の声に、「どんなときにも他人に対する思いやりを」と題した投書がありました。

銀行のATMで何冊もの通帳を記帳して10分くらい待たせた人がいて、その人が、その迷惑を謝りもしなかったと言うのです。もし、他人に対する思いやりがあるなら、ちゃんとひとことみんなに謝るべきだし、一時中断して後ろに並び直すことも出来たはずだ、という投書でした。

私はこの投書を読んで腹が立ちました。
いや、こういう考えをするのは個人の勝手ですが、こういう特殊な考えは新聞の読者の声という公的なものに掲載すべきではないと思いました。

というのは、これはただ単に、偽善だと思ったからです。
約10分も銀行のATMで待たされて、それで腹が立って、どうしようもなくなって、投書という手段をとったのだろう。しかも自分を善人にして……。(10分ちゃんと時計で計っていたとは書いていなかった)

だいたいわたしはタイトルからして、その待つ間の約10分をみんなが優しい目で見つめながら見守るのが思いやり、そういう内容だと思っていたからです。

こう考えて、わたしはこの投稿した人物と、それを掲載した新聞社にかなり腹が立ちました。

しかし、この投稿者がほんとにみんなのことを考えて投稿した可能性も否定できないと気がつきました。わたしはこの投稿者を偽善者であると決め付けていました。

この投稿者が実際にどういう考えで、この投書をしたのか、わたしには知る由もありませんし、これからも決して知ることはできないでしょう。

しかし、確実なのは、わたしがこの投稿者を偽善者であると決め付けたとき、すなわちネガティブなとらえ方をしたとき、私の中にあったものは、ワクワクとは逆のものでした。

そして、私が自分で、「私はこの人を勝手に偽善者であると決め付けているな」と気がついたとき、その瞬間、私から苦しみが消えました。

そのことをネガティブに見たとき、私の心はネガティブに支配され苦しく
そのことを何の意味もない中立のことであると見たとき、私の心には平安が訪れました

これは、まさに、バシャールの言うとおりでした。

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