鏡の中の自分を見ても、五分前と変わっていないと思うかもしれません。
でもそれは、鏡を自分で見たときに、みなさんの魂がこれは同じ魂だ、と肉体レベルでわかるように維持している「自分は連続した存在である、という幻想」なのです。
以上、バシャール (著), ダリル・アンカ (著), 関野直行 (翻訳)『バシャール・ペーパーバック6―ワクワクを生きると自然に「いま」を生きられる (VOICE新書)』P.99より引用させていただきました。
鏡の中に自分とは別人の顔が映っていたら、五分前とは変わっている!と思うでしょう。
でも、変わったのが顔だけで、あとは今まで通りの日常しか流れないなら、それは変わったとは言えないのかもしれません。
違いは過去には違う顔をしていたという自分の記憶だけです。
鏡の中に五分前の自分とは別の顔があって、しかも過去まで変わっていたら、どうでしょう?
この場合は調度五分前と魂が入れ替わった状態です。
その場合は、魂としては連続しているが、肉体としては連続していないことになります。
でも、バシャールが言うのには、鏡の中に五分前の自分とまったく同じ顔と体でしかも記憶も途切れていない。
まわりの環境と記憶との整合性もある。そんな場合でも、肉体は以前のものとは別のもののようです。
鏡の中にいつもと違わない自分がいても、それは幻想であり、そこには違う自分がいる。
顔も体も記憶も五分前と変わらないのに肉体は別物である。(さらに魂までも別物?この当たり疑問です)
同書P.100によると、肉体が同じに見えても、毎瞬毎瞬物理的にもまったく違う人間だそうです。
ひとつか二つの考えが変わるとき、まったく違う人間になる。
このまったくとは、肉体的にも、魂的にも違うという意味でしょうか?
でも魂まで違ってしまったら、もはやそれは別人だと思うのですが……。
それとも、魂と意識は別のもの?