「でも、バシャール。私がどう定義づけしても、みんなが住んでいるこの一定した世界は変わらずに存在するじゃないか」というでしょう。でも、それは、人々が集合的にテレパシーで同意をし、共に創り出している「ゲーム」なのです。:バシャールの学校

「でも、バシャール。私がどう定義づけしても、みんなが住んでいるこの一定した世界は変わらずに存在するじゃないか」というでしょう。
でも、それは、人々が集合的にテレパシーで同意をし、共に創り出している「ゲーム」なのです。

以上、バシャール (著), ダリル・アンカ (著), 関野直行 (翻訳)『バシャール・ペーパーバック6―ワクワクを生きると自然に「いま」を生きられる (VOICE新書)』P.46より引用させていただきました。

本当の現実とは、自分が自由に定義づけし、創り出せるものなのだが、実際には個人が定義づけを行なっても、一定した世界として現実は今まで通り存在している。

宇宙で唯一の法則「自分の与えたものが、自分に戻ってくる」に従って、それぞれが中立なものに意味づけをして(意味を与えて)現実を創り出しているが、個人が意味づけを変えても世界は相変わらず今までと同じように存在しているのは、この世界はみんながテレパシーで集合的に同意をして共同で創り出している世界だから。

意味づけによって現実を創り出すのを、自動操縦に任せているので、いちいち考えないでもすむようになっている。
みんなで信じることに同意した定義づけを使って、現実を支持し続ける。

現実創造と言うゲームをスムーズに行うために、ほとんどの人がそのゲームに同意をしている。
但し、個人的にはもっと自由が与えられている。

集合的テレパシーで同意をして、共に意味づけをして創り出したこの世界はゲームである。
このゲームは、みんなで信じることに同意した定義づけを使って、今も存続している。

信じるとは、あるいは観念とは、継続的かつ自動操縦で与えている意味づけ、ということだろう。

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