スピリチュアルな人間が怒りを感じた時の対処法 : BASHAR(バシャール) 2006

たとえば、「私はとてもスピリチュアルな人間だ」という人が何らかの状況で突然、驚くほど怒ったり、こわがっていたとしましょう。
そのとき、もしその人が「受け入れる」というコンセプトを理解していないと、こんなふうに言うかもしれません。
「自分はすごくスピリチュアルな人間だから怒りを感じるはずがない。自分はスピリチュアルなんだから怖れを感じるはずがない。自分はスピリチュアルなんだから、そんなものを感じるべきではない」

以上、ダリル・アンカ (著), 大空 夢湧子 (翻訳) 『BASHAR(バシャール) 2006 バシャールが語る魂のブループリント』P.78より引用させていただきました。

だけど、こんなふうに「このような経験や感情は自分の人生にあるべきではない」と否定することは、自分自身のスピリチュアリティの一部を否定することになるそうです。

経験や感情も、意識の中で、つまり自分の中で起こっているのですから、それを否定することは、自分を否定することになります。

スピリチュアルな旅の途中では、成長につれて怒りや怖れをあまり感じなくなるでしょうが、それでもやはり時として、怒りや怖れという感情を感じるときもあるでしょう。

その時には、怒りや怖れを旅を中断させるもの、あるいは旅とは関係のないものとしてとらえるのではなく、スピリチュアルな旅の一部としてポジティブな理由があって起きているに違いない、とそういう理解の仕方をするのだそうです。

「どんなことにも等しく価値がある」というとらえ方をしたとき、そこからポジティブに学ぶことができます。(同書P.79)

スピリチュアルな人生を目指すのは、怒りに任せた人生、あるいは怖れに満ちた人生を改善したいという思いから、というのは多いと思います。

それで時として、スピリチュアルな人生を送っていれば、怒りとか怖れとか、そういうネガティブな感情とは無縁の生活が送れるような気になってしまいます。

でもこれはある意味エゴが仕掛ける罠ですね。

無条件の愛は、ネガティブを決して否定しません。
すべては中立でそこに意味はありません。

この原則を忘れさせる罠です。

受け入れるとは……

受け入れるとは……

「自分の人生で起きる、ありとあらゆる出来事はすべて自分自身のものだと自覚する」ということ、「出来事に対する所有意識を持つ」ということ

起きることはすべて自分の意識の一部 – 「受け入れる」の意味 : BASHAR(バシャール) 2006

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