「こんなことが起きるのではないか」と怖れているとき、肯定的なものより、怖れているものの方が起きると信じていることになる。怖れるということは、否定的な現実を選択しているということです。 by バシャール

「こんなことが起きるのではないか」と怖れているとき、より肯定的なものよりも、怖れているものの方が起きると信じていることになります。
怖れるということは、否定的な現実を選択しているということです。

以上を、バシャール (著), ダリル・アンカ (著), 関野直行 (翻訳)『バシャール・ペーパーバック5 望む現実を創る最良の方法はワクワク行動をすること 』121-122ページより引用させていただきました。

誰も否定的な現実の方を選択したい人はいないと思いますが、「こんなことが起きるのではないか」と怖れることは誰にでもそして日常的にあるように思います。

特にテレビを見ていればそういう傾向は顕著だと思います。
何か悲惨な事件が起こればテレビは各局その事件ばかりを取り上げます。
そしてそういうテレビ番組を見ていれば「こんなことが次には自分に起きるのではないか」と思ってしまうのは当然のように思います。

そういう時には怖れなければいいんですかね? 
どんな悲惨事件を何度も何度もテレビで目にしてもそれが自分に起こるかもしれないと怖れなければ問題はないのでしょうか。
要は感情の問題なのかもしれません。
感情いわゆる気分や気持ちは自分の出す波動と直結しているからです。
恐怖の波動は恐怖の波動を反映するような現実をもたらすのでしょう。

今回のこの引用したバシャールの言葉の一番大切な点は、「こんなことが起きるのではないか」と怖れてしまうその気持ちこそが怖れるような現実を引き寄せてしまう張本人なのだということなのかもしれません。

怖れなければどうということもないのかもしれません。
怖れの波動を出さなければ怖れの現実を受け取ることもないのかもしれません。

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