物理的現実の中にあるものすべて、そして、皆さんが物理的現実の中で行うことすべては、単なるシンボルでしかあり得ないのです。:バシャールと宇宙連合

バシャールと宇宙連合による本『ニュー・メタフィジックス―世界を創る意識の力学』の22ページにはこうあります。

物理的現実の中にあるものすべて、そして、ちょうど皆さんの夢が、表層意識が集めたシンボルの集合体であるように、皆さんが物理的現実の中で行うことすべては、単なるシンボルでしかあり得ないのです。

この引用した部分の前の方に

「存在」の完全性を体験できても、それを説明することは本質的に無理だとあり

しかし、存在を象徴的に「シンボルとして」表現し、それらのシンボルを知的に理解することは可能とあります。

ここに答えがあったのかも知れません。

先の記事での疑問です。

一般的に想像力は無限であると言われる。
これは言葉を変えれば何でも想像できるということだ。

一方でバシャールは想像できるものはすべてどこかの次元に存在すると言った。

ここに矛盾が発生した。

一般的見解とバシャール的見解において矛盾が発生してしまった。

一般的見解では想像力はなんでも想像できる。
なんでも想像できるから、「大いなる全て」以外も想像できてしまう。

しかし、バシャール的見解では想像できるものはどこかの次元に存在するのだから、それは「大いなる全て」に含まれてしまう。

「大いなる全て」以外を”想像”した途端にそれは「大いなる全て」になってしまう矛盾。

ただ、ひとつ抜けていることがあります。

バシャールは想像力が無限だとは言っていません。

なので、厳密に言えば矛盾していません。(あるいは無限という言葉の解釈の問題か)
そもそも一般的見解とバシャール的見解を混ぜてしまったのがおかしいのでしょう。

存在しないものは想像できない。
存在しないんだから想像できなくても当たり前。

だけど、存在しないものも想像できるような気がした。
存在しないペガサスだってユニコーンだって人間は想像できる。
(バシャール的にはどこかの次元に存在しているだろうが)

存在しないものが想像できる以上、非存在である「大いなる全て以外」も想像可能なのではないか?私はそう考えた。

完全な無は論理的に考えて想像不可能なはずだ。
だって完璧に何もない無なのだから、想像する余地が文字通り”無”だ。

しかし、「完全な無」という言葉を認識した時に私がイメージしているこれはなんだろう?
これは「完全な無」のイメージではないのか?「完全な無」を想像しているのではないのか?

そう考えると思考はぐるぐるとエンドレスで回り始めた。
思考は迷路に入ってしまった。私は思考を止めた。

そして今日そのバシャールの言葉に出会った。

存在を象徴的に「シンボルとして」表現し、それらのシンボルを知的に理解することは可能だとすれば、逆に、非存在である「大いなる全て以外」を象徴的に「シンボルとして」表現し、それらを知的に理解することは可能だとならないか?

可能なような気がする。

しかしそもそも、バシャールの言うように「物理的現実の中にあるものすべて、そして、皆さんが物理的現実の中で行うことすべては、単なるシンボルでしかあり得ない」のであれば、「大いなる全て以外」を想像する行為も当然単なるシンボルであり、だからこそ、それが可能なのだろう。

MIL39019

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