「大いなるすべて」自体が自分が「大いなるすべて」であることを忘れてしまう経験は、「分離」と呼ばれます。それによって、「大いなるすべて」は分離を経験することができます。 by バシャール

「大いなるすべて」自体が自分が「大いなるすべて」であることを忘れてしまう経験は、「分離」と呼ばれます。
それによって、「大いなるすべて」は分離を経験することができます。

以上、ダリル アンカ (著), 北村 麻紀 (翻訳) 『バシャールペーパーバック〈7〉ワクワクとは、あなたの魂に打たれた刻印である (VOICE新書)』P.224より引用させていただきました。

引用した部分までを以下にまとめてみます。

「大いなるすべて」は自分自身が「大いなるすべて」であることを知っている。
しかし、「大いなるすべて」が本当に「大いなるすべて」であるためには、その中に「本当に自分自身が大いなるすべてなのかどうか知らない」という部分(概念)も含んでいなければならない。

それによって、「大いなるすべて」は自分以外に「大いなるすべて」というものがあるかどうかを考える、という経験ができる。

しかし、それでもそれは、「大いなるすべて」の中での経験にすぎない。

……となるとですねぇ

やはりいわゆる悪というのは必要だということになります。
善を知るには悪が絶対必要だからです。
悪がなければ善を知ることができません。

となると、善を絶対視し悪を完璧に排除しようとするのは、間違いだということになります。
善も悪も価値は同じです。人間のエゴを通したとき、善は自分にとって良いもの、悪は自分にとって悪い影響を与えるもの、そう映るだけです。

悪には感謝しなくてはなりません。
善という貴重な体験をさせてくれてありがとう!と。

論理的に考えてみると、そうなります。

MIL7//1

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