思考が そのまわりにつくりだす空間には
愛がありません
そのような空間は
人と人をへだてるものになります
その空間のなかで
ひとは何者かになろうとし
人生の闘いがおこり
苦しみや恐れがうまれます
以上、J.クリシュナムルティ (著), 中川吉春(翻訳)『瞑想』P.67より引用させていただきました。
思考の存在こそが自分が自分であるアイデンティティだと何十年ものあいだ考えてきましたが、ここ数年、バシャールやスピリチュアルな本を読書することによって、その考えが揺らぎつつあります。
……と、この上の文章の中でも、散々私は”考えています”。
思考がそのまわりにつくりだす愛なき空間とは具体的に何なのでしょう?
肉体とその肉体の感覚器官が感知できる範囲の物理的な空間ということでしょうか?
それとも、もっと抽象的でイメージ上の空間のことなのでしょうか?
あるいは自分が自分であると意識することによって生み出されたすべてのものを含む空間なのでしょうか?
そもそも、この現実が自分が創っているものなら、この現実のすべてが”それ”に該当するのでしょうか。
いずれにしても、人と人をへだてているものが、”それ”である確率は高いと思います。
ひとはそのままのあるがままで、もうすでに何者かなんでしょうね。
だから、あらためて他の何者かになる必要は元々なかった……。
自分はいまのまま、あるがままで充分なのに、他のものになろうとするから、苦しみや恐れがうまれるのでしょうね。
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