自発的な苦しみは、「神に捧げる苦しみ」と表現することもできます。 : エックハルト・トール

自発的な苦しみは、「神に捧げる苦しみ」と表現することもできます。
(中略)
十字架は、拷問の道具です。それは、もっとも過酷な苦しみ、人間の限界、人間の非力さを象徴しています。けれども、そのとき人間は、「わたしの意思でなく、神の意思がなされますように」という言葉で表現されるように、放下し、自らの選択によって苦しむのです。その瞬間、拷問の道具である十字架は、その隠れた姿を明らかにします。それは、神聖なシンボルであると同時に、神性のシンボルでもあるのです。

以上、エックハルト・トール (著), Eckhart Tolle (原著), あさり みちこ (翻訳)『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』P.220-221より引用させていただきました。

前の記事で、自発的な苦しみというのには違和感があると書きましたが、こうやってイエス・キリストの例を持ち出されると、まさにイエス・キリストが十字架にはりつけられて苦しんだのは、自発的な苦しみだったと納得できます。

でも……なんだか騙されているのでは?という気持ちも一方で湧きます。
今度は、拷問の道具が、神聖で神性のシンボルであるというのに、違和感を抱きつつあります。

すでにもう痛い苦しみを、自発的に苦しむのは理解できるけど、これから起こるであろう痛みや苦しみを、自発的に受け止めていく……というのは、 やはりイエス・キリストだからこそ可能だったことなのでしょう。

DES01045

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