私たち「意識」が観察したいのは、いのちという繁栄そのものの営みと、その喜びであって、不足や貧困自体ではない : 『空(くう)―天翔ける歓喜の弥栄』をバシャール的に読む
私たち「意識」は、いのちという繁栄そのものの営みと、その喜びを観察したいのであって、不足や貧困自体が目的で観察したかったわけではありません。
満ち足りていることが一体どういうフィーリングなのかを実感体験して”知る”ために、まずは不足・欠乏・喪失を味わってみるプロセスが最初は必要だっただけです。
以上、Mana (著) 『空(くう)―天翔(あまか)ける歓喜の弥栄(いやさか)』P.60より引用させていただきました。
私はテレビドラマが好きでよく観るのですが、なぜ観るのかと言うと、面白いからであり、楽しいからであり、感動するからです。
だけど、ドラマに感動できるのは、悪役が悪の限りを尽くし、あるいは主人公にいろんな災難が降って来るからです。
そのようなものを、最後に倒しあるいは乗り越えるから、面白いし感動もします。
まったく悪がなく、善人ばかり出てくるドラマで、さらに主人公がなんでも可能な神のような存在で、しかも善いことしかしないのなら、なんの面白みもないし、感動もないでしょう。
ものすごい悪人が出てきたり、主人公がものすごいダメな人間であったり、ストーリーが紆余曲折するからテレビドラマは面白いのです、感動するのです、観ていて楽しいのです。
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