観念と感情と思考パターンが三角形のようになってパーソナリティを構成しています。これらの三つの要素が一緒になって、行動やふるまいを決定します。by バシャール

これら、観念と感情と思考パターンが三角形のようになってパーソナリティを構成しています。
これらの三つの要素が一緒になって、行動やふるまいを決定します。

以上、バシャール (著), ダリル・アンカ (著), くまり莞奈子 (翻訳) 『バシャール・ペーパーバック8―ワクワク、それは人生に活力を与え続ける機関車 (VOICE新書) 』P.118より引用させていただきました。

パーソナリティの一番上のレベルにあるのが「観念」。
観念はこれが真実だと「信じ込まされてきた」こと。
観念がなければ(現実に対する定義がなければ)、この物理的な現実を体験出来ない。

ゆえに

物理次元での体験を変えたいなら、持っている観念や現実に対する定義を変えることが有効。

(つまりこういうことか?
私がこうして椅子に座っていられるのも、椅子は固く、常にそこにあり、人間が坐るためのものだと信じているから?
じゃあ、椅子は柔らかいもので、バネのようになっており、座ると揺れるものだと信じれば、そういうものになる?
でも、椅子は固くて坐るものだと、全人類のほとんどはそう信じているぞ?)

実は私達は、観念や定義を変えることで、物理次元の時間と空間を体験することが出来ている。
無意識のうちに非常に早いスピードで定義を変えているので、動きや時間の変化がひとつのつながりのように感じられる。

(無意識のうちに定義を変える?どうやって?
その能力はどのようにして得ることができた?学習?
そもそも、この物理次元に存在すること自体が、定義を無意識に変えているその結果では?)

この無意識に行なわれている部分を意識に上らせることによって、どんな体験をしたいか、自分でコントロールが可能となる。

二つめは「感情」。

感情はすべて観念から来る。
人生で経験する感情はすべて、観念、定義から来ている。

(ということは、すべてを中立に見るには、この観念、定義を取っ払えばいい?
でも、観念、定義のおかげで、この物理次元の現実に存在できるんだよな?
ならば、完全に観念、定義を取っ払うのは不可能、しかし部分的には可能だろう。
その望ましくない感情を呼び起こした観念、定義だけを撤去すればそれで目的は達成される。
しかし、そもそも観念や定義って撤去が可能なのか?)

三番目の要素は「思考パターン」。

私達の知的な部分で、思考はすべて、観念から生じた感情から出てくる。

(感情から思考が出てくる?思考を観念に近いものだとイメージしていると、この方向性は逆に感じる。

観念は思考ではない、観念は信じていること、観念はどちらかというと信念に近い気がする。
信念から感情が生まれ、そして感情はいろんな考え(思考)を生むと考えられないか?

道路にゴミを捨てては行けないと言う観念があり、道路に誰かがゴミを捨てたという事実があったとする。
そこから出てくる感情は、けしからんという怒りの感情。その怒りの感情から(怒りの感情を納めるために)、そのゴミを捨てた人を呼びとめて注意すべきだという思考が生まれ、実際に行動するか、もしくは別の観念、注意して逆ギレされたらこっちが損だという観念があれば、怖れの感情が起きて、やっぱり何もしないほうが得だと思考して、何もしないこともあり得る。)

パーソナリティの三角形は、観念と感情と思考パターンで、この三つが同じ量で、バランスがとれているのが望ましい。
この三つの要素の中に否定的なものがあると、バランスが崩れてしまう。

思考は一番最後なんですね。
たしかに行動やふるまいは、この物理的現実での最終形態です。
予想外です。(^-^;

感情だけだと、それは行動に結びつかない。
感情が起こり、その解決策を考えるのが思考なんでしょうね。
そして、思考と行動はリンクしている。

ゴミを道路に捨てるべきではない(観念) → ゴミを捨てている人を見る → 腹が立つ → この不快感をどう解消しようか?と思考する。 → そうだ!注意しよう。そして実際に注意する。相手は謝ってゴミを拾う。 (これで目出度く終了)

MIL56029//1

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