古い自分が新しい自分になるとき、古い自分から、ものの見方を変えた新しい自分になるだけなのです。
以上、バシャール(チャネル:ダリル・アンカ) (著), 関野直行 (翻訳)『BASHAR GOLD(バシャール ゴールド)』P.168より引用させていただきました。
ある意味では、無限の数の地球が存在する。
可能な地球のすべてがいま存在している。
だから、ひとつの世界から別の世界へ変化するとは
新しい世界を構築するとは
ひとつの地球から、すでに存在しているほんの少しだけ波動の違うもうひとつの地球(並行して存在している地球、パラレル・アース)へと移るだけ。(これは移動ではなく原理的にはテレポートと同じ、文字どおり移るだけ)
動き、連続性は幻想であり
意識が、ひとつの見方から別の見方に変えているだけ。
あとから見てみると移動したように見える。
意識が見方を変えたことがこの物理的な現実に現れたもの、それが物理的な動きとなる。(同書P.169)
意識は、どこにも動かない。
つねに「いま、ここ」に在るのです。
意識が見方を変えることによって、動き(移動)という幻想が生まれる。
物理的な現実の中で動きまわっているというよりは、物理的な現実がまわりで動いている
映画のフィルムが映写機を通るスピードは、意識がパラレル・アース(映写機の中のフィルム)を認識するスピードと言える。
これによって、動きのイリュージョンがつくられる。
映画のフィルムは、1コマ1コマは分かれてはいるが、それぞれが分かれた「いま」を表す。
フィルムのコマは、見方次第では、どんな順番でも見ることができるが、私たちはコマを順番に見ていこうと集合的に同意している。
フィルム1コマの中の人は動いていなくても、1コマ1コマを順番に追っていくとき、ただ単に見方を変化させているだけなのに、動いているように見える。
何かが動いていると見えるとき、実は、その瞬間瞬間、自分の意識の見方を変えて、それを並べて、いかにも動いているかのように幻想をつくりあげているだけ。
つまり、私たちの物理的な現実は、映画のフィルムのような構造になっている。
フィルムの1コマ1コマは、無限に存在している並行した地球と言える。
見方を変えるとは、意識のフォーカスを移すことだと考えられる。
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