人や物などに出くわしたときに感じる感覚が、みなさんが個人として物や人や情況に与えている意味を表しています。 : バシャールを生きる

人や物などに出くわしたときに感じる感覚が、みなさんが個人として物や人や情況に与えている意味を表しています。
(中略)
それを感じることによって、自分の持っている観念や信じていること、本来のあなた自身がさらによく見えてきます。

以上、バシャール(チャネル:ダリル・アンカ) (著), 関野直行 (翻訳)『BASHAR GOLD(バシャール ゴールド)』P.25より引用させていただきました。

ここで疑問が湧きました。

感覚と感情ってどう違うのでしょう?

たとえば、朝起きると外は青空が広がっていて気持ちのよい太陽の陽射しが燦々と降り注いでいる。窓を開けて新鮮な空気と太陽の光を浴びた。

この時の感覚は、肌を暖める太陽の光であり、肺に飛び込んでくる新鮮な空気であり、目に写るスカイブルー……ということで、感覚とは五感が感じる刺激に対する反応ですね。

視覚には青が飛び込み、青くて綺麗だと意識する。
聴覚には小鳥のさえずりが飛び込み、平和を感じ心地よい。
触覚には朝のひんやりとした空気が触れて、これも心地よい。
なにか朝のいい匂いもしているかもしれない。

この時の感覚は大まかに言えば「気持ちがいい」でしょう。

ではこの「気持ちがいい」は、感情なのだろうか?

「気持ちがいい」のを感情で表せば、「楽しい」「嬉しい」などが考えられる。

となると、五感に対して刺激を感じたときに意識がそれをどのように解釈するか、その解釈の在り様が感情という気がする。

外部から五感への刺激の感覚に意識が意味を与えたとき感情が発生すると考えられる。

目に青空が写る、すなわち視覚が青い色の刺激を受ける、意識は空が青いから天気がいい、天気がいいと概ね五感は気持ちのよい刺激を受けるだろう、空が青いと見えるのは良いことだと意味を与える。良いことがあると楽しいし嬉しい。

視覚が青を感じる → 意識が経験から空が青いのは良いことだと意味を与える → 楽しい、嬉しいという感情が生まれる

……と、こんな感じだろうか。

五感がただ感じているだけでは、そこに特に意味はない。(いや意味はある?)
ただ感じているだけなのは中立の状態だ。(いや中立ではない?)
そこに、それまでの経験や学習から意味を与えたとき、感情が生まれる。

ということで、感覚と感情というのは、かなり違いますね。(^-^;(いや微妙に融合している?)

感覚はただ在るもので、感情は(意味を与えることで)生まれるもの。

でもこの私の思考結果と、一番最初の引用したバシャール情報「人や物などに出くわしたときに感じる感覚が、みなさんが個人として物や人や情況に与えている意味を表しています。」は微妙に違いますね。

わたしの思考結果と少しズレが生じました。
このズレは「感覚」という単語をどう解釈するかによって生じたと思われます。

引用した文章の「感覚」という言葉には幾分感情を含んでいるように思います。

ちなみに広辞苑では

かん‐かく【感覚】(sensation; sense)

1.光・音や、機械的な刺激などを、それぞれに対応する受容器によって受けたとき、通常、経験する心的現象。視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚など。「指先の―がなくなる」
2.物事を感じとらえること。また、その具合。「美的―」「―が古い」
3.(接尾語的に) あたかも…のような感じである意。「ゲーム―で学習する」

 MIL47047//1

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