目の前の現実のすべて。通行人さえも含めた何もかもすべてを「わたし」が創り上げている。じゃあ、どうすればより良い現実を構築できるのか?
以上、さとうみつろう (著), ダリル・アンカ (著)『その名は、バシャール』25ページより引用。
スピリチュアルの本質からするとより良い現実を求めてはダメなのだが、人はどうしても、より良い現実を実現するためにスピリチュアルに頼ろうとしてしまう。
せっかくネガティブな感情を味わうために生まれて来たのに、それを避けようとする。
より良い現実を求めるということは現状を否定するということだ。
自然界でありのままに生きている動物や植物はより良い現実は求めない。
その現実で自然と調和して淡々と生きていくだけだ。
ということで、もし自分がバシャールの言うように現実のすべてを創っているのなら、より良い現実にしたいと、たいていの人は考える。
ただこの場合の「自分」がいわゆる「エゴ」であった場合。
本当の自分(神である自分)と「エゴ」の間に葛藤が起こりそうな気もする。
神として現実を創っている「自分」とより良い現実を目指す「自分」が同一でないとき、葛藤が生まれる気がするが……。
つまり、自分の望みを叶えるためにスピリチュアルに頼るのは矛盾していないだろうか?
スピリチュアルの本質が「本来神である自分が制限を味わうためにわざわざ不自由な現実という世界を創った」というのなら、スピリチュアルを利用して望みを叶えようとするのは(自由を求めるのは)矛盾しているように思える。
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