バシャールのペーパーバック4の170ページには以下の様にあります。
性格とは、毎瞬毎瞬、あなたがその状況からなにを一番学ぼうとしているのか、という「姿勢」にすぎないのです。
ですから、自分の中に持っている考え、「観念」を変えると、自分という人間がまったく変わります。
文字通り、変わるのです。
ここで言う性格とはキャラクターのことだと思いますが。
つまり人格のことだと思いますが。
人格者という言葉があります。
立派な人のことです。
魔がさすという言葉もあります。
人格者も時に悪人になるかも知れません。
そう考えると毎瞬毎瞬人格も変わっているのかも知れません。
人格者というのは毎瞬毎瞬、人格者であろうとしているから人格者なのかも知れません。
自分が自分であるのも毎瞬毎瞬自分であろうとしているから自分なのかも知れません。
というのは、いまもしすべての記憶を失ったとしたら、きっと自分は自分ではないはずだからです。
いまもし自分がすべての記憶を失ったとしたら……
言語能力、今まで蓄えた知識のすべて、今まで体験してきた経験のすべて
言語と思考を持たぬ自分は果たして今の自分と同じ自分なのか?
今の自分がいきなり生まれたての自分になったとしたら、その自分は自分を自分だと認識できるのか?
引用したことを自分なりに少し乱暴にまとめてみると、「ものの見方そのものが人格である」となるように思います。
物事の解釈の仕方あるいは解釈の傾向が人格であると。
すべては中立なのに何故「学び」の姿勢なのか?
それは生まれて生きているということは、それ自体ですでに少しポジティブだからなんでしょう。
そしてより生きるためにはあるいは生き延びていくためには「学び」というのは必須ということでしょう。
中立が中立のままだと何も生まれてこないが、ほんの少しのポジティブさがあれば
創造が起きるのかも知れません。
究極のポジティブさが自ら生きていくということであり、究極のネガティブさが自ら死んでいくということなのでしょう。
この記事は、以下の本を参考にしています。
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