「大いなるすべて」についてのまとめ : バシャールの学校
さて、今回は、バシャール (著), ダリル・アンカ (著), 北村麻紀 (翻訳)『バシャール・ペーパーバック7―ワクワクとは、あなたの魂に打たれた刻印である (VOICE新書)』P.222-228を参考に、「大いなるすべて」についてまとめてみたいと思います。
※()内は、私の推測若しくは感想です。
「大いなるすべて」は、自分自身が「大いなるすべて」であることを知っている。
(それを知っているということは、それが実在するということだろう。実在しないものを知ることはできない。)
でも本当に「大いなるすべて」が「大いなるすべて」であるためには、その中に、「自分自身が大いなるすべてなのかどうか知らない」という部分(概念)を含んでいなければならない。
(知らないというのはあくまでも概念上のことであり、実際は「大いなるすべて」はすべてを知っている。)
これによって、「大いなるすべて」は自分以外に「大いなるすべて」というものがあるかどうかを考える
という経験が可能になる。
(考えるという経験をしたいがために、知らないという概念をつくった?)
「すべて(all)」であるということは、想像し得ることをすべて含んでおり、望むことはなんでも経験できるということ。
「大いなるすべて」は自分が「大いなるすべて」であることを、忘れることによって、分離を経験できる。
(本当は知っているのに、知らないという幻想を抱くことが、分離?分離という経験を「大いなるすべて」は創造した?でも「大いなるすべて」なんだから、そういう経験でさえすでにその中にあったはずだ……)
人間はその歴史上のほとんどで、自分は「大いなるすべて」だということを忘れるゲームをしてきた。
自分が「大いなるすべて」だということを忘れることによって、それを再発見したときに驚くことができる。
自分自身に対する新しい観点を発見することができる。
(でもこの新しい観点でさえ、元々は「大いなるすべて」の中にあったもの。実際は新しいものではない。初めて会ったものではないのに、それを忘れていて、初めて会ったとして驚くという経験自体も、元々「大いなるすべて」の中にはあったはずだ。新しい観点は再発見されることしかできない。)
「大いなるすべて」にはそのような発見の仕方しかできない。
「大いなるすべて」の一番高いレベルでは、自分自身が「大いなるすべて」であるということを忘れることはできない。
なので、「大いなるすべて」は、不可思議なことを経験するために、自分自身の中に様々なレベルを創造した。
(このレベルというのが、いわゆる「次元」ということか?)
「大いなるすべて」が「大いなるすべて」であるためには、それ自身の中に「大いなるすべて」であるということを「知らない部分」を持っていなければなりません。(同書P.226)
そうすることによってはじめて、「大いなるすべて」は、存在と非存在、全体と部分というようなパラドックスを含んだ概念全体になることができる。
(「大いなるすべて」は「大いなるすべて」であるがゆえに、存在と非存在、全体と部分という概念を生み出した時点で、それらがパラドックスになってしまうということか?
すべては存在しており、すべてはひとつであるというのが、元々の真実だが、非存在や部分という概念=幻想を生み出すことによって、でも正確にはすでにそれらも存在していたはずだが、「経験」というものが可能になった?)
想像することができるものはすべて「大いなるすべて」の一部であり、必ずそれはどこかに実在している。
「大いなるすべて」の一部でなければ、それを想像することができないからだ。
なぜなら「大いなるすべて」の外というのはないから。
「大いなるすべて」を超える何かがあると想像し、そのような概念を持つこともできるが、その想像そのものは「大いなるすべて」の中にある。
(あれ?想像するものは存在するのでは?だったら「大いなるすべて」を超える何かも存在することになる。でも「大いなるすべて」の外に何かが存在していたら、それはもはや「大いなるすべて」ではない!……と、これがパラドックスなのだろう)
「大いなるすべて」を超える何かがあるかもしれないという概念は、「大いなるすべて」が自分自身に向き合うひとつの方法に過ぎない。
(概念や方法は、幻想であり、存在ではない?「大いなるすべて」の外というのはないのに、何故我々は「大いなるすべて」の外という概念を持つことが可能なんだろう?あるいは「大いなるすべて」の外という想像は不可能?「大いなるすべて」の外という想像も可能なような気もするが……でも想像が可能であればそれは存在してしまうので、真の意味の「大いなるすべて」の外という想像は永遠に不可能ということになる)