ここにパラドックスがあります。
自分でできる限りの個性を持った人間になったとき、無論他の人を犠牲にしてということではありませんが、自分の個性を百パーセント発揮したときに、全体とひとつになることができるのです。
自分の持つ才能を百パーセント発揮するとき、創造のすべての部分がそこで満たされます。
それによって、創造の他の部分に触れることができるのです。
自分の持っている境界の、本当にギリギリのところまで近づくことができます。
この境界線は、みなさんの頭の中の定義づけでできています。この肉体レベル、物理レベルでの分離は、みなさんの思考の中以外には、本当は起こり得ないのです。みなさんの頭の中だけで起こっているのです。
以上、バシャール (著), ダリル・アンカ (著), 関野直行 (翻訳)『バシャール・ペーパーバック4―ワクワクこそが、ひとを深くいやす力がある (VOICE新書)』P.22-23より引用させていただきました。
さて難しいです。
本当は分離などなく、分離は頭の中だけで起こっているだけ、というのと、自分の才能を百パーセント発揮したとき全体とひとつになるというのが結びつきません。
自分の持つ才能を百パーセント発揮するとき、創造のすべての部分がそこで満たされるとは、どういうことなのか?
部分が満たされてもそれはすべてではないのでは?というひねくれた考えも出てきます。
創造のすべての部分とは私達個人個人を指すのか?
でもそれだと、自分の持つ才能を百パーセント発揮したところで、すべての個人がそこで満たされるようには思えない。
どうして、自分の持つ才能を百パーセント発揮すると他の個人に触れることができるのか?
よくわかりません。
そもそも創造のすべての部分とは我々個人個人のことではない?
ひとつの考え方として、一人がその才能を百パーセント発揮することは、他の人全員もそういうことが可能だと指し示す意味で、他人の才能までも百パーセント引き出したことになると言うことでしょうか。
才能を百パーセント発揮することで、自分の持っている境界のギリギリまでいけるというのは理解できます。
この表現は問題ありません。
境界線、肉体的、物理的分離が、頭の中の定義づけによって出来ている、というのも、頭で理解はできますが、身体で体感は出来ません。依然として今の私に境界線は存在しています。
……ということで、なんとく、おぼろげにその全体像が見えそうになるのですが、次の瞬間、霧に隠れてしまうという感じです。
おそらくこの次元の考え方ではなくもっと上の次元の考え方でいかないと理解できないのでしょう。