頭ではわかるけれど、心の中ではわからない、できない、という時、それは次のようなことをいっています。
「私は自分の頭と心が別々のものだという定義づけを選択しています」と。
以上、バシャール (著), ダリル・アンカ (著), 関野直行 (翻訳)『バシャール・ペーパーバック3―ワクワクするとき、ひとはもっとも多く学ぶ (VOICE新書)』P.144より引用させていただきました。
この引用した文章のあとに以下のようにバシャールは続けます。
「もし本当に理解していると感じたならば、なぜ、自分のすべての部分が理解しているのだと考えて、日常生活を歩いていかないのでしょう」と。
さてここで思考実験をしてみたいと思います。
テレビに気に入らないタレントが映っている。
でも、バシャールはすべてのものすべての状況は中立、ニュートラルだと言っていた。
だったらこの状況も中立で、私は特別な感情を、このタレントに持たなくても済むはずだ。
でも、そう頭では分かっているが、心は依然としてそのタレントを嫌っている。
この場合、ごく普通に考えれば、頭と心は別だから、そういうことはあるよね、で終わってしまう。
そう、私達は頭と心は別で当たり前として育ってきた。
だから、ちょっとやってみたけどうまくいかないと、直ぐに諦めてしまう。
頭ではわかってるんだけど、心がねえ~と。
じゃあ次に頭と心は分離しておらず一つのものだという観念を持てばどうなるだろう?
ん?テレビに気に入らないタレントが出て来たな。
嫌だな。気分が悪いな。なんかムカつくな。
でも、バシャールはすべての状況は中立で、初めから決まった意味などないと言っていた。
さらに、肯定的な意味づけをすれば肯定的な結果を得るとまで言っていた。
そうかそうか、テレビにはただタレントが映っているだけ。そこに何の意味もない。
本当にそうだなあ。四角い画面の中に人がいて体を動かしながら口をパクパクさせているだけ、そして口をパクパクする時には、音声が聞こえてくるな。
なんだ、風に枝がなびくのと何も変わらないな。
だから特に何の感情も湧かないよ。
だって私はすべての状況は中立であると(頭も心でも)理解しているから。
すべての意識で分かっているから。