宗教に人が集まり、その上おびただしい数となるのは、大いなる全て(すなわち本来の自分)より自己を分離することから生じる混乱の自然の結果だということがわかります。「知恵」が放棄され、性格(物事に対する考え方が肉体次元に表現されるメカニズム)だけに焦点が合わされる時、すなわち、様々な概念が知的部分によってのみ解釈される時、このような多様化されたものの見方が創り出されます。
以上を、バシャールと宇宙連合 (著), ダリル・アンカ (著), 関野直行 (翻訳)『ニュー・メタフィジックス―世界を創る意識の力学』P.59より引用させていただきました。
引用した部分までに書いてあることを以下にまとめてみます。
「キリスト意識」と呼ばれる高次元からの意識が投入された時にも、分離のサイクルがあまりにも完全であったために理解されることはなかった。
「キリスト意識」が伝えていたメッセージは、人はそれぞれキリストのような意識を持っているということ。
人はキリスト意識そのものであるということだった。
しかし、分離のサイクルは皆さんの意識に深く根を張り、意識自体を硬直させ、その防壁を強化した。
そのため、自分自身が実践者や指導者になる代わりに、すべての力をその個人(キリスト)に委ねて信奉者となるしかなかった。
キリスト意識はイエスという個人を通してひとつの鏡となることを望んでいた。すべての個人が神または大いなる全ての延長、もしくは子供であるという考え方を反映する鏡となることを望んでいた。
ですから、人々は指導者を必要とし、自分が神聖なる者以下の価値しかなく、神聖なる者に審判される立場にあると考えることを探求する概念である宗教は、常に大いなる全ての内部における分離でしかない。
宗教と呼ばれる概念は、指導者自身が無意識の中に存在する無力感の真只中にいるにもかかわらず、あなたにその力を維持して欲しいと望ませることにより、自分の本来持つ力を他人に委ねさせてしまうものだ。
これを、人の無力さ、怖れ、審判を通して、または指導者自身を大きく見せることを通して行う。
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