簡単にいうなら、わたしたちは、「人間」という形態をまとった純粋な「意識」なのです。 : エックハルト・トール

簡単にいうなら、わたしたちは、「人間」という形態をまとった純粋な「意識」なのです。

以上、エックハルト・トール (著), Eckhart Tolle (原著), あさり みちこ (翻訳)『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』P.14より引用させていただきました。

意識がなければ、物事を認識することができず、思考も世界も存在し得ないとのこと。

確かにそれを意識しなければ、それが存在していても、存在しないのと一緒です。

この世界に蝶の羽を持った黄金の豚がどこかに存在していても、そのことを誰も知らなければ、存在しないのと同じです。

(これは実際、バシャールが言うには想像できるものはどこかのパラレルワールドに必ず存在しているそうだが、私たちにはそのパラレルワールドに行ってそれが存在しているかどうか確認のしようがないので、その意味では存在しないと一緒だ。)

私の目の前に存在するこのメモ用紙の一片も、確かにここに存在はしていますが、そのことを知らない人にとっては、このメモ用紙の一片は存在していません。

そういう意味では、意識できないものは、存在していないと言えるでしょう。

でも、これも逆なのでしょうか?

私たちが現にこうして物事を認識することができているから、思考や世界も存在するのでしょうか?
先に意識があるから、思考や世界が存在し得たのでしょうか。

もしこの宇宙中から、意識というものがすべて残らず引き上げたとしたら、はたしてこの宇宙は存在していると言えるのか?言えないのか。

どれだけ多くのものや強大なものが無限にこの宇宙に存在していても、それを認識する意識がなければ、それが存在するかどうか疑わしい。そもそも存在しないこと自体がそこに意識がなければ認識できない。

存在するかどうかを考えることができるのも、そこに先に意識があるからだ。

もし私がいま死んだら、私の死後、この世界は存在しないのと一緒だ。
なぜなら死んだらこの世界を意識でもって認識できないからだ。

でも、他人の死の経験上私が死んでもこの世界は残っていると思われる。
(誰かが死んだ時に一緒に世界も消えたという話しは聞いたことがない)
たとえ私の意識で認識できなくても。

でも、この現実が夢であるなら、話しは別だ。
私の死と一緒に綺麗さっぱりこの現実世界は消えてなくなるだろう。

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