誰の反応も間違いではなく、誰の考えも間違いではなく、誰の苦しさも間違いではなく、誰のうれしさも間違いではなく、どれもが大いなる「空」による”観察”でしかありません : 『空(くう)―天翔ける歓喜の弥栄』

誰の反応も間違いではなく、誰の考えも間違いではなく、誰の苦しさも間違いではなく、誰のうれしさも間違いではなく、どれもが大いなる「空」による”観察”でしかありません : 『空(くう)―天翔ける歓喜の弥栄』

誰の反応も間違いではなく、誰の考えも間違いではなく、誰の苦しさも間違いではなく、誰のうれしさも間違いではなく、どれもが大いなる「空」による”観察”でしかありません。

以上、Mana (著) 『空(くう)―天翔(あまか)ける歓喜の弥栄(いやさか)』P.140より引用させていただきました。

これはつまり、何でも正解、すべては正しいということでしょうね。
バシャールも同じことを言っています。

そして、すべてが単なる「空」による観察であるのなら、これはバシャールの言うすべての状況は中立であるというのと、同じだと思います。

なぜなら”観察”には意味づけが含まれないからです。
そして意味づけをしなければ、観念も生まれません。

観念が浮かんでこないということは、中立に見ることができているということではないですか?

コメント

タイトルとURLをコピーしました