けれども、みなさんの世界では、このコマを順番に見ていこうという同意をしています。
みなさんの意識が1コマ1コマを順番に追っていくとき、みなさんはただ単に見方を変化させているだけです。
フィルムの1コマの中の人は動いてはいません。
みなさんは、「このコマを順番に見て、映画の中ではみんな動いているかのように見よう、そういう幻想をつくろう」と同意をしているのです。
以上、バシャール(チャネル:ダリル・アンカ) (著), 関野直行 (翻訳)『BASHAR GOLD(バシャール ゴールド)』P.170より引用させていただきました。
動きが幻想であることを、説明するために、バシャールは映画のフィルムをたとえに出してきました。
映画のフィルムは、静止画の1コマ1コマが、時間に沿って並んでいる。
1コマ1コマは分かれているが、それぞれが分かれた「いま」を表す。
コマは連続はしているが、見方次第では、どこにでも入れ替えることができる。
しかし、私たちは、このコマを順番に見ていこうと同意している。
……そして、引用した部分へ……
確かに映画のフィルムの1コマ1コマは、そのコマが上映された瞬間瞬間には、それぞれが「いま」です。そういう意味ではすべてのコマが、「いま」です。
すべてのコマが、同じ「いま」であるなら、どういう順番で、あるいはランダムに、個々のコマを映画館で上映しても、非合理的ではない気がするが、実際にそれをやったら、おそらく観る人は理解不能に陥るだろう。
ではどうして映画のフィルムのコマを順番に見ていこう!とみんなで同意したかと言うと、それはおそらく時間と空間というものを体験したかったからだろう。
あるいは、誰が観ても、同じ映画になるように……ということなのか?
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