だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
以上、『紙装 中型新約聖書』P.50より引用させていただきました。
マタイによる福音書25章14節から30節での話しです。
「天の国はまた次のようにたとえられる」で始まるたとえ話のなかの一節です。
これだけを読むと現在の資本主義のことを言っているように思えるが、そうだとしたら、聖書としてはおかしいので、別の意味だろうと思う。
「タラントン」のたとえと名前がついている。
ある人が旅行に出かけるときに僕(しもべ)たちを呼んで、自分の財産を預ける。
それぞれの力に応じて、一人に5タラントン、一人に2タラントン、もう一人に1タラントン。
5タラントンを預かった人は出て行き商売をして5タラントンを儲けた。
2タラントンを預かった人も、2タラントンを儲けた。
しかし1タラントンを預かった人は、出て行って、穴を掘って隠した。
かなり日がたってから、主人が帰ってきて、5タラントンと2タラントンを儲けた僕にはこう言った。
「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」と。
1タラントンを預かった僕は、あなたは厳しい方だと知っていたので、恐ろしくなって、タラントンを地の中に隠しましたと言った。
主人はこの僕に対して、怠け者の悪い僕だ。私のことを厳しいと知っているのなら、銀行に預けるべきだった。そうすれば利息付きで返してもらえたのに。そのタラントンをこの男から取り上げて、10タラントン持っている者に与えよ。この役に立たない僕を外に追い出してしまえ、そう主人は言った。
という話なんですが、私の思っていた神のイメージとは違うので、妙に惹かれます。
私ならどうするだろう?
商売するのはあまり好きではないので、隠しはしないけど、増やしもしないと思う。
主人に忠実にただタラントンをそのまま守ると思う。だって主人は増やせとは言っていない。
でも考えてみると、預かった1タラントンを隠してしまうのが、一番楽な方法ではあります。
でも、やりがいはまったくないだろう。
商売や事業をして預かったタラントンを倍にすれば、喜ぶ主人を思い浮かべれば、その方がやりがいを感じるだろうとは思う。
さてこれをバシャール流に考えてみると、だれでも自ら先に豊かな波動になれば与えられて豊かになるが、自ら貧しい波動になることを選べば奪われ貧しくなる、とそう言えるのではないでしょうか。
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