みなさんが体験するいろいろな出来事、事象は、本来すべて中立なのです。
どんな状況も、その中に本質的な意味はありません。
その事象の中にある意味は「こういったことが起きたら、それはこういう意味なのだ」とみなさんが前から教えられている部分からきています。
以上、バシャール (著), ダリル・アンカ (著), 関野直行 (翻訳)『バシャール・ペーパーバック4―ワクワクこそが、ひとを深くいやす力がある (VOICE新書)』P.10より引用させていただきました。
さてこのことについて思考実験をしてみたいと思います。
もし自分の死を体験した時、果たしてそれは中立だと言えるだろうか?
自分の死は中立であり得るか?
もし魂は永遠であり死後も意識があるのなら、死というのは、服を脱いで別の服に着替えるようなものです。
だとすれば、死でさえも中立と言えるかもしれません。
でも、自分が死んで、それで終わりで、”無”になってしまうのならどうでしょう?
この場合、自分の死は自分では体験できず、自分にとって自分の死は存在しないことになります。
存在しないものに意味を与えることはできません。
となると、この場合も、死は中立で本質的な意味は持たないのかもしれません。
……と考えてきて
ひょっとして、様々な意味づけ、いろんな見方ができるからこそ、すべてが中立なのかもしれません。
じゃあ、意味づけをする主体、いろんな見方をする主体が存在しないところで、起こっていることに意味はあるのでしょうか?
意味づけする人がいないところで起こっていることは、当然無意味なので、これもまた中立と言えるのかもしれません。
ジャングルの奥深く強い風が吹き抜けて太い枝を折った。
その枝は真っ逆さまに地面へと落ちて、そこにいた一匹の蟻の命を奪った。
でも、そのことを誰も知らない。もちろん蟻も死んでしまったので自分の死を知ることはできない。
誰も意味づけをすることのできない一匹の蟻の死、誰も知らない蟻の死に意味はあるのかないのか。
このようなシチュエーションを想像して、その想像に対しての意味づけは可能だが、あくまでもそれは想像上の意味づけに過ぎず、事実そのものに意味づけたことにはならないと思われる。